屋久島旅記録4

 

 

 

 

「あ、もう無理だ」という言葉とともに、クロスバイクを降りた。体もだけど、より降参していたのは、心だった。忍耐と解放の繰り返しの「忍耐」が辛すぎて、もうこれ以上は耐えきれないって、心が限界を迎えた。

 

 

立ち止まって、「いまここで引き返して、絶対に後悔しないか?」自問自答する。

 

 

おそらく2〜3分かけて、色んな条件を天秤にかけた。この先で坂が厳しくなること、雨が降ってきたこと、腰が痛くなってきていること、絶対に遅れられないことを、クリアできる気がしなかった。「精一杯やったけどダメだった、だから後悔しない!」と一周を諦め、「代わりに海中温泉までは行く」とプランを変更し、方向転換した。

 

 

当初の作戦

 

変更後の作戦

 

 

決断はしっかり下した。潔く決めた。でも、清々しい感覚じゃないことにも気づいてる。でも、これ以外に選択なんてなかったはず。これが正解だ。

 

 

さっきは上りだった坂が下りになって、さっきは下りだった坂が上りになる。いやぁ、よくぞこんな坂をのぼったなぁ!!と、驚きと称賛の言葉を発しながら、長い長い坂を下る。

 

 

誰もいない、車もほとんど通らない、ひたすら孤独な時間。じわじわと、さっきの決断の瞬間が、思い起こされる。

 

 

「たぶん、あの条件下でも、やりきる人は、やりきるんだろうなぁ...。」

 

 

はじめに湧いてきた想いは、これだった。

 

 

そう思えてならなかった。

 

 

飛行機に乗り遅れる?そんなの、遅れたっていいじゃない。また航空券を買えばいいだけ。もう一泊すればいいだけ。その分働けばいいだけ。「一周したい」んだから、「戻る」なんて選択肢を自分に設けないで、どんなハプニングが起ころうとも「一周したい」を叶えるために動くだけ。なんなら、もしかしたら寸でのところで間に合うのかもしれない。「一周する」は揺るがぬ着地点で、それに伴って起こることは、全部おまけ。一周したいのなら、必ず一周する。

 

 

そうやって、叶える人は叶えるんだろうなぁ...と思った。

 

 

わたしには、その気概がないんだなぁ、とも。

 

 

それに、「一周したい」という夢を、いとも簡単にスルスルと手放す心の移ろいの瞬間を、今、初めて自覚しようとしている。

 

 

無理だ、って思ってから、あんなに大事だったはずの夢を、辛いんだもん、もうがんばれない、と、なんのプライドもなくスルスルと手放していた。

 

 

その、手放していく数十秒間を、鮮明に思い出すことができた。

 

 

極まって極まって極まって極まって、「無理だ」が口をついて出てきた瞬間をピークに、スル、スル、スル、スル、と、階段をひとつずつ降りるように、一度も抵抗を見せることもなく、手放した。

 

 

最近の若い子は骨がないと言われて育った。そんな恐ろしい呪いの言葉をかけられて育ったわたしたち可哀想、と同情もしつつ、現実は、骨のない自分を目の当たりにしている。決断は正解で、スマートだったかもしれない。でも、正解なだけで、最高ではなかった。最高を、わたしはいとも容易く手放した。なりふり構わず、がむしゃらに、島を見たいんだーーー!!!って突っ走ることもできた。でもその気力は、全然なかった。そしてこれは、気力がないというより、諦めることが前提だった、と言うほうが正しいんじゃないか。諦める選択肢を、始めから持っていたんじゃないか。

 

 

そう気づいて、どんどん悲しくなってきた。これまでずっとそうだった。ゴールを簡単に手放してきた。ここぞという踏ん張りどきが来たら、あ、もう辛いからやめる、って手放してきた。がんばらなくていいって本当?本当かな。さっき、もう無理だ、って思ったとき、本当は頑張りたかったんじゃないのか。辛いけど、辛いけど、辛いけど、一歩でも、1ミリでもいいから進んで、諦めたくなかったんじゃないか。泣きながらわめきながらでも、本当は突き進みたかったんじゃないのか。風の時代は頑張るなって方々から言われる。でも、魂は、本当は頑張りたかったんじゃないのか。

 

 

あぁ、このままのわたしじゃ、アトピーを治すのはおろか、人生を生き切ることも、中途半端になるな...。

 

 

今まで自覚していなかった、今はっきり自覚した、諦めグセ。

 

 

今回はもう、ほんとに体を故障させることはできないからこのまま引き返すとしても、

 

 

“次に決断をするときには、絶対に夢を手放さない自分になる”。

 

 

そう決意しながら、海中温泉を目指した。

 

 

 

 

ゾッとした瞬間。

 

 

雨が強まる。雨宿る。売店で朝食を買って食べる。

 

 

youtu.be

 

 

雨が弱まる。走り出す。服がビショビショでくっついて気持ち悪い。冷たい。疲れた。

 

 

...もう、宿まで行ったら近くの温泉入って、あったまって、日記書くのもありだなぁ。頭の中整理したいこと、山ほどあるし。海中温泉は、行ってもどうせ引き潮じゃないし(引き潮のときだけ現れる天然の温泉だから)、カフェとかでゆっくりするのもいいな。そうだな。それもありだな。そうしよう。

 

 

空が少し晴れてきた。気持ちも明るくなってくる。あと少しだけ、がんばろう。

 

 

緩んだ気分で走りながら、はたと気づいた。

 

 

あれ。海中温泉の夢、また簡単に手放しちゃった...?

 

 

気づいて、ゾッとした。あまりにも無意識だったから。一周を諦めて、さらに、次なる夢になった海中温泉も諦めて。二回も諦めた。次はもう諦めないって言ってたすぐあと、二回目も諦めた。わたし。

 

 

考え方って、こうも癖づいているものなのか。わたしって、こんなに無意識のままに、夢を手放すんだ。知らなかった。

 

 

うわ...。気づきたくなかった...。だって、まだ挽回できちゃうタイミングだもの...!このまま諦めるのか、やっぱり踏ん張るのか。まだ選べる。まだ時間がある。てことは、葛藤しなくちゃいけなくなっちゃったじゃないか。気づきたくなかったけどもう、完全に気づいちゃったから後戻り不可能だ...。

 

 

心も身体も、もう休みたかった。楽したかった。終わりにしたかった。もう辛い。もう踏ん張れない。

 

 

でも魂の望みは、「海中温泉が見たい」だった。菊名の家で写真を見せてもらったとき、あんなにも行きたいと、この目で本物を見てみたいと、切望したじゃないか。見れなくてもたいしたことじゃない、って言い聞かせようとしてるけど、どう考えても、大事すぎる夢だろ。

 

 

もうがんばりたくない。

 

 

でもこれ以上このまま、「夢を手放す」「最高を手放す」自分のままではいたくない。

 

 

ここで踏ん張らなかったらもう、一生踏ん張れない人間のままだ。きっと。アトピーを治す夢だって、辛くなったらどうせまたすぐ手放す人生だ。全てにおいてそうだ。

 

 

 

休みたい。休みたい。休みたい。

でも、海中温泉、やっぱり目指したい!!!😭

アトピーだって、治したい!!!

生き様、変えたいぃぃぃぃ!!!😭

 

 

ちなみにご存知の通り、「したい」は、決意していないときに使う言葉だ。つまり、このとき決意はしていなかった。決意できなかった。決意に慣れていなかった。

 

 

決意できないまま、それでもなんとか、「諦めない」だけは続けることで、最後の砦を守った。決意はできてない。でも、諦めてはいない。まだ、諦めてないよ。いやだ。辛い。やめたい。やめちゃいたいってすごい思ってる。でも。

 

 

『次に決断をするときには、絶対に夢を手放さない自分になる。』

 

 

って、10分前に決めたばっかりじゃないかーー!!!

 

 

その『次』が、今来ちゃってるんだってば!!!これを見送ったら、自分との約束を無下にしてしまったって言って、もう自分のこと信じられなくなっちゃうよーーー!!!信頼度、だだ下がりで戻ってこれなくなるよーーー!!!😭

 

 

葛藤葛藤葛藤の嵐のまま、決意もできないまま、ぐちゃぐちゃの心で走り続けた。1時間ぐらい。

 

 

 

 

休もうとしていた、宿のあるエリアに差し掛かった。

 

 

スピードをゆるめる。馴染みのある風景。

 

 

視線は、カフェを、温泉を、探している。

 

 

宿の前で、止まる。誰も通らない、まだ静かな朝。

 

 

自転車は、降りなかった。降りようと、想像することもなかった。

 

 

言葉はなにもないまま、宿を越えたその向こうへ、走り出す。

 

 

この瞬間が、決意だった。決意しようとしたわけではなく、静かに、必ずゴールしている自分が心の中で決まった。行けるかわからないけどとりあえず行ってみよう、とかではなかった。ゴールする未来が、なにがあっても動かない事実として、この時決まった。

 

 

はじまりはまた、長い長い上り坂。

 

 

空は晴れ。左手には、青い海。右手には、昨日登った山。

 

 

走る。振り返らずに、ただただ前へ、前へ、前へ。走る。

 

 

屋久島旅、最後にして最も濃厚で猛烈な時間、が、ここから始まるーーーー!!!

 

 

 

 

濡れた服を乾かしたい+肩は守りたい+日に当たりたい、を組み合わせた格好で、いざ。

 

 

 

 

 

屋久島旅記録3

 

 

前日は23時に眠り、翌朝しっかり4時に起きた。決行だ。

 

 

出発を未明にしたのは、満点の星空を見たかったからというのもある。4:45に宿をチェックアウトし、真っ暗闇の中、前日にレンタルしたクロスバイクに乗る。クロスバイクにちゃんと乗るのは初めてだ。でも電動でスイスイと楽な旅にはしたくなかった。いや、本当は電動で楽したかった。でも、自分の足の力を使って島の大きさを体感したかった。バランスを取れずにフラフラよろけながら、出発した。

 

 

ほどなくして街灯のない道に現れた、満点の星空。あたりが暗くて怖い。でも嬉しくて、1人奇声を上げながら漕ぐ。ゆっくり寝てなくてよかった。星空なんて、想像の範疇を超えない。きっとこんな感じだろうとイメージしたのと、そんなに程遠くない星空。だから、見なくてもなんとなく分かるからいっか、と思って出かけないことの方が多い。でも、写真で見るのと、自分の体を使って見るのとは、全然違った。なにもかも違った。何度でも見たいと思った。

 

 

朝6:00。家から持ってきた煮干しを頬張っていたときに、日の出に遭遇する。見惚れながら、トマトと、家から持ってきたレンコンと吉野葛の滋養食も、頬張る。

 

 

youtu.be

 

 

 

からだはまだ眠くて、ノロノロとしか進まず、1時間で島の10分の1しか進んでいない。時間制限は8時間だ。単純計算すると、間に合わない。このあとからだが目覚めてきたら、挽回できるだろうか。

 

 

 

漕ぐ。漕ぐ。漕ぐ。延々と続く、上り坂と下り坂の繰り返し。上り坂は、「全力を注いで漕いでも歩いた方が早い」ぐらいのスピードになる。気持ち的にも、めちゃくちゃつらい。降りて、漕いで、降りて、漕いで。しんどくてしんどくて仕方ない上り坂の先に、下り坂でパアッと解放される。忍耐、解放、忍耐、解放、忍耐、解放......延々と続く、精神修行のループ。ひたすら自分を鼓舞しつづける。

 

 

7:45。時間的に4分の1、距離的にも4分の1だ。このペースならなんとかいけるかもしれない。

 

 

と、思っていた矢先、上り坂の途中で、ポキッと心が折れた。

 

 

 

 

 

屋久島旅記録2

 



 

 

 

どうしてそんなに感傷的な旅の終わりを迎えたかというと、これまでの人間性を乗り越えようとして、そして実際に乗り越えていく瞬間が何度もあったから。その中でも最大の出来事は、心の底から、そして体全部で、悶えた。

 

 

28日の昼に島に着いてダイビングへ直行し、翌29日は10時間に及ぶ縄文杉への登山で全身ヘトヘトになったあと、最終日は、屋久島を電動でない自転車で一周することを選んだ。

 

 

屋久島を一周。それはわたしにとって、軽い気持ちで達成できるプランではなかった。まず、最終日は午後の14時には空港に着いていたいから、絶対に失敗できない。失敗したら航空券の数万円がチャラになるだけのことだけど、航空券の数万円分また働いてもいいぜとは思えなかったので、それは避けたかった。そして地元の人によると、一周にかかる時間は車で2時間以上、自転車だと早い人で6〜7時間。長い長い登りと下りの坂の繰り返しだから、わたしの体力ではきっと8〜10時間はかかるだろう。朝4時に出発してギリギリだ。縄文杉を見るために初めてのがっつり登山をしたばかりなので、余剰の体力もない。そして登山のおかげで腰も痛い。どう考えても賭けだ。

 

 

それでも一周を選んだのは、「見てみたい」という願望を残して島を去りたくなかったからだった。島の反対側はどうなっているんだろう。島の大きさってどれぐらいなんだろう。そういう、未知のものを見てみたい、知りたいという好奇心は、あまり長い間叶えられないままだと、心の一部が凍結してくる。屋久島へ来るのを長らく我慢してきたから、その辛さはよく知っていた。

 

 

「宿から2時間ほどの距離のところにある、今回拝みたかった海の中の温泉を楽しんで帰ってくる」という、やさしいプランもあった。でも、それを選ぼうとすると、元々の夢は叶うはずなのに、落ち着かなかった。"一部じゃなくて、全体を見たい気持ち"が置き去りになるから。未知を未知のまま残してはここを去れない。知りたいんでしょう?また来た時にとか考えていないで、いま、ここに居るじゃないか。居るんだから、居る間に、見に行こうよ。

 

 

そうして賭けの上で決断して朝4時半に出発した屋久島一周の珍道中で、わたしのこれまでの人間性を激しく問われる難問にぶち当たるのだった。

 

 

この頃はまだなにも知らない

 

 

屋久島旅記録1

 

 

 

 

 

縄文杉を見ること、南の海へ潜ることを目的に、屋久島へ3日間の旅をした。

 

 

去年沖縄へ旅をしたときも、ほんの数日間がとてつもなく濃厚で、日常でも旅するように生きられたらと思って終えたのに、あれから数ヶ月、日常は日常だった。

 

 

“旅行”ではなく、“旅”をいつも渇望していた。日常で生み出すことが難しい、冒険と刹那を。今回、念願叶ってそれを実現できた。一日一日が真剣勝負で、一瞬一瞬が宝物の発見の連続で、気が休まることはなく、3日間駆け抜けた。

 

 

島を離陸するとき、「ありがとう」と呟いたら、わたしは泣いていた。振り返る間もなく一所懸命に生きていたことを身体が確かに覚えていて、生き切った日々の愛しさと終わりの切なさが濃く差し迫ってきて、どうしようもなかった。ああ、死ぬときってこの感覚に近いのかなと思った。

 

 

youtu.be

 

 

 

 

それよりも大切なことなんてないんだよ。






自分の書いたものでどんなに苦しもうとも、同時に自分を救えるものが書くことなんだから、自分のために、自分を救うために、書こうと思う”





フラフラだ。毎日フラフラで1日を終える。



今日は演奏を録音して、終わったとき、持てるエネルギーをすべて使い果たしてしまったのが、目に見えるように手に取れるように感じられた。エネルギーの貯蓄がない状態で使って使って使いまくってしまった。エネルギーの増減を観察するようになったのはつい最近で、これがとても楽しい。



https://youtu.be/XRWrChzOkSk



「今日はお昼ごはんしか食べていなかったから夜ご飯も食べなきゃ」「でも疲れすぎてて今すぐ寝たいから消化の時間がない」、の間を取って、レモンを思い切り絞って飲んで、せめてものビタミンを摂取し、寝床について、これを書いている。



幸せだなと思う。健康的な生活ができてるかどうかだけ見たら、もう全然お話にならないほどできていない。でも、それをちょっとぐらい犠牲にしてでも、己を懸けたいと思うものがある。そしてそういう自分の思いを疑わずにいられる。



メインの収入源だった看護師の仕事を辞めることを、数週間前に決めた。人生を大きく変えてくれたお仕事だった。でもそれとは別次元の根本のお仕事に対する気持ちが、お金の不安、そしてそれを支えてくれるもの、だった。不安だから、しがみついていた。そのしがみつく思いがなによりも人生にストップをかけていると思い、それをやめて、いよいよ本気で生きようと思った。貯金は0円だし他に保証があるわけではない。でも、本気になる対象だけはある。本気で望むことだけはある。求めよ。さらば与えられん。その世界を地でいく。魂が望んでいることには、本当に手を差し伸べられるんだということを、日々体感している。



いま、本気になっている人達を、沢山感じる。身近でも、身近でなくても感じるし、ずっと興味のなかった“政治”の分野でも命懸けで闘ってくれている人達を知って、大きく変わっていく強い流れにも勇気を貰う。



ほんの1日、決意を書いたから変われることじゃない。明日も、明後日も、その先も、ずっと。幸せになるために、全力で自分を救うために、祈るんだ。



幸せになるんだ。みんなで幸せになるし、わたしはわたしで全力で自分を救うんだ。全力でだよ。ほんのちょっと舵を切って満足するようなレベルじゃ、もうないよ。救うんだぜ。魂ごと、愛する人達ごと、世界ごと、宇宙ごと、わたしに関わるすべての微粒子ごと全部、救うんだぜ。そりゃあもう、本気になるしかないでしょう。





しっかり眠るために、少しだけ、と言って書き始めたのに、寝る時間が多少削られてでも今日残さなければ、と、書くことをなにより優先してしまった。これでいいんだ。こういう、没頭する自分を支えるために、健康になりたいんだ。没頭することをやめたら、本末転倒だ。



書いた。書いた。たとえ自分の書いたものに、あとから苦しもうとも。これを書いていたこの時間、わたしはわたしを救った。書くことで、人生を歩んだんだ。救われていたんだよ。いまは、それよりも大切なことはないんだよ。いまは、それよりも大切なことなんてないんだよ。






全力で自分を救え。







つらい。からだが辛い。上手い書き出しを考えてる暇がないくらい、からだが辛い。


今までちゃんと向き合ってこなかった感情が、身体的な不調となって全部一息にのしかかってきている気がする。


でも、適当に生きてきたわけじゃない。そこを間違えちゃ駄目だ。わたしなりに、どの瞬間も、必死に切実に懸命に生きた毎日があったから、今、息をしていられるんじゃないか。生きててよかった。生きてる。心臓が動いてる。命がある。嬉しい。生きててよかった。


自分のためだけに文章を書くことが難しい。でもそれが、なによりも良くないことだったのだと思う。誰かのためになっているかどうかが書く基準になってしまった。人の為と書いて偽り。嘘を書いてきたわけじゃない。ただ、書きたいことを、抑えてきた。


誰にも読まれない日記だったら、毎日だって書いた。小学生の頃から、毎日、毎日、書いては捨てて、書いては捨てて、一体どれだけの言葉を綴ってきただろう。


いまだって、毎日毎日とめどなく膨大に湧き続ける言葉があるのに、「人目につく」という選択肢が生まれると、「人目につかない」言葉まで書けなくなってしまった。そうして溜まって置いてけぼりになって淀んだものが、沢山ある。でも、適当に生きたわけじゃない。悩み抜いて見出したことだって沢山ある。


助けて。わたしはわたしであることが許せない。誰かみたいな、あの人みたいな、文章を書けない自分が許せない。気持ちが弱ってるからとかではなく、元気なときだって、もうずっと。自分の書くものが許せない。自分の変えようのない性質も、存在も、許せない。こうじゃなかったらと思う。でも愛してる。紛れもなく、愛してる。


自分の書くものが許せないけど、こういうふうにしか書けない。こう在ることしかできない。生きることもきっと同じだろう。許してください。許してください。こんな自分のままでどうか生きさせてください。自分のままで生きていきたいのなら、自分のままで在り続けなければいけない。偽っていては、隠れていては、いつまで経っても、自分のままで世界で呼吸をできる日はこない。


だから、自分のためだけに、自分の書いたものでどんなに苦しもうとも、同時に自分を救えるものが書くことなんだから、自分のために、自分を救うために、書こうと思う。







からだがつらい。頭がクラクラする。皮膚が痒い。胃が苦しい。呼吸も時々苦しい。腰が痛い。肩こりがすごい。生理のときは生理痛がすごい。口内炎が痛い。痛いから食べれない。


文字にすると、全然辛くなさそう。いや、客観視は必要ない。つらいんだから、つらい。


前まではひとつずつ、別々にしんどかったけれど、同時に存在するようになったから、もはやどこから手をつけたらいいのかわからなくなってしまった。生き方全部、そのままじゃまずいから、あなたに合ってないから、なんとかしてって言われているんだと思う。




自分の幸せを、願おうと思う。心からの、手放しの、幸せ。ちょっと願って、ちょっと対症療法をして、ちょっと舵を切ったぐらいじゃ全く太刀打ちできないぐらいの、でっかい、心からの幸せを願おうと思う。今までとは比べ物にならないくらい、切実に、自分の幸せを、願おうと思う。



本当は。

安心していたい。笑っていたい。

いつもからだに力が漲っていて、

いつでも走り出せるぐらい元気でいたい。

心地よく眠りたい。

痒くなくて、綺麗な肌で、

ピカピカ発光する肌で、

思いっきり鏡の中の自分の中に向かって

可愛いねって言って、笑いたい。

凝ってなくて柔らかい肩で、からだで、

空気に溶けるみたいにリラックスして歩きたい。

心地良くいたい。

心地良くいたい。



心地良いことを自分に禁じてきた。真剣に、一生懸命、切実に生きていること、それをずっと自分に求めてきた。でもいま、真っ昼間から、頭がフラフラで満身創痍で横になってしまう自分を見て、限界なんだなと、違うんだなと知る。まだ価値観としては、心地良いことを禁じている自分がいる。でも、このざまを見てくれ。ちゃんと見てくれ。目を逸らさずにちゃんと。放っておいたらもうあとがないくらい、肉体が堪えまくっている。


こんなになってもまだ禁じているのはなんでだろうって、考えるのも億劫だけどがんばって深掘りしてみると、好きだと言ってくれた人たちの心が離れていくことが怖いんだという気持ちに、一瞬で行き着く。


今までのわたしを好きだと言ってくれたのに、変わってしまったら、離れていってしまうのかもしれない。もう、そういう、変化の恐怖は散々経験してきた。でもそれは、基準を相手に置くことで自分を生きることから逃れているっていう、実は狡いこと。自分にとって良いことが起これば、必ず相手のためにもなっているって信じていない、失礼なこと。わたしの幸せが、みんなの幸せになると信じるんだ。


とか言いながら、それで嫌われたことなんて一度もないというのに。怖いよ。怖いさ。でも、真実にはどうしたって近づいていくんだ。真実からは、たとえ直面する時間を遅らせることはできたとしても、絶対に逃れられない。真実からは、逃れられない。わたしがいま直面すべき真実は、自分の幸せ。他でもないこの肉体が、精神が、安らいでいること。



どんな未来を生きたい?どんな今を生きたい?本気で思い描こう。


未来を先に決めよう。進みたい道を。生きたい世界を。それを決めた瞬間、今と未来が繋がって、未来が来る前に、もう幸せになれる感じがする。本当の望みを明らかにすることだけが、なによりのゴールな気がする。


そう、富士山に行ったときに思った。


自分の状況をみて現実的に無理だと判断して、望むことそのものを抑えてしまうけれど、大事なのは、叶うかどうかじゃなくて、望んでいるかどうか。



https://haruka-ruka.hatenablog.jp/entry/2022/01/14/234243



望む前から諦めて、望むことをしない。それは、自分の中で「叶うこと」がなにより大事になっているからだ。「叶うかどうか」がなにより大事で、状況を見るとどうやら叶わなさそうだから、望んでも無駄だと感じ、なにを望んでいるのかをちゃんと見ない。


でも大事なのは叶うかどうかじゃない。行きたいのかどうか。やりたいのかどうか。それを望んでいるのかどうか。なにを望んでいるのか。


それを明らかにした途端、たとえいまその状況でなくとも、もう、幸せだと思う。本当の想いを、知れたのだから。これからは、本当の想いを見つめながら歩いてゆけるのだから。




本当の想いを知れただけで、幸せだと思う。

そこに触れられるのだから。

この瞳に映すことができるのだから。

叶うかどうかじゃない。

自分の本当の想いを知った瞬間から、

幸せだと思う。











ただいま。とってもお久しぶり。


どっかへ出掛けてました。外へ、外へ、外へ。


この2ヶ月の間に、すっかり変わった。生きていることがわかるし、からだが在ることがわかる。格段に、息をしやすくなった。存在できる。落ち着いて、存在できる。


人間の本気、人間がたどり着ける限界、人間の肉体と精神がたどり着ける限界の場所、それをわたしも目指したい。


そういうことを考えると、小手先のことなんかもう、いよいよ頑張らなくてよくて、ただ作品づくりに没頭すればいいのだと思う。作品とは究極、この、からだ。肉体。精神。魂。存在。


肉体と精神。それを用いて仕事をしたいという言葉が、数日前から頭の中を流れている。人間の限界、本気の作品に直接触れて、自分のそれはなんだろうということを激しく突きつけられたのがきっかけだった。


その作品は、形あるものだった。だからこそ、作った人がこの世に存在しない今も尚、わたしは触れることができる。それと比べると、肉体と精神は、わたしがこの世を去るのと同時に、消えてなくなるもの。言葉も、絵も、造形物も、残る。肉体は、精神は、物理的には消える。消えてなくなるものに、わたしは今から全てを懸けようとしているのかと、少し寂しく思いながらも、この道を進まずにはいられない。


精神を、肉体の範囲を超えて空間全体に飛び出させる力は、大学時代踊りをはじめたときに身につけた。わたしの踊りを買ってくれている人には興醒めかもしれないけれど、意図的に身につけた瞬間が確実にあった。


内側に燃える炎は、はじめのうちは、肉体の範囲の中ですら広がらなくて、胸の奥の奥の奥に、閉じ込められていた。それを広げていったのは、踊りを通してではなく、叫ぶことを通してだった。それに長けている人が沢山いたから、憧れて、憧れて、誰かの真似ではない自分だけの炎を、声を、探し続けた。週に2回、約4年間もそれをやり続ける環境があったことはわたしの人生にとってありがたい奇跡だ。そのうち、いつからかはわからないけれど、空間の遠く反対側にいる相手にも、自分の魂を濃くぶつけることができる実感が湧いたけれど、踊りを通してそれをすることは困難だと感じている段階のまま、終わってしまった。


その流れが、今に繋がっている。


創作の踊りを歌をするようになってからは2年以上経つけれど、これまでは、生き抜くためにやってきた。空間を、見ていてくれる相手を、必死に見ようともしているけれど、それよりも自分が生き抜くこと、崖の上から恐怖のど真ん中へと飛び込むこと、そういう差し迫る生命の危機が視界のほとんどを占めていた。



https://youtu.be/iXlpINZXmRw



いま、あのとき純粋に、自分の中にある想いを空間の遠く反対側にいる相手にも届けたいと強く願ったように、この肉体と精神を使って、言葉にならないけど確実に存在しているなにかを、「届けたい」という思いが湧くようになった。


なんだか今日は弱気な気分で、届けたところで一体なにになるというのだろう?と思ってしまうのでこれ以上深掘りしないけれど、そんなことはないということも、知っている。




今朝動画で、子どもが知っていることを大人に教えてあげる、というやりとりを見た。その中で、「人が喜ぶことだけ、自分が喜ぶことだけ、どっちをやっていても神様は喜ばないんだよ」と男の子が話していた。


日本の人は、きっとものすごく多くの人が、自分が喜ぶことだけやってた...!という気づきよりも、人が喜ぶことだけやろうとしてた...!という方でハッとするんじゃないかしら。


わたしも、自分の喜びを禁じてきた。根っこではわがままだし、思い通りにいかないと拗ねるし、とても自分本位なのが本音でも、それはいけないことだと言い聞かせてきた。


自分も、人も、喜ぶ仕事。それをしたときに、神様は喜び、全力で助けてくれるんだって。




昔から、特に男性から、あなたはそこにいてくれるだけでいいとか、女の子は笑っていてくれるだけでいいとかを言われると、「ソレハ、アタシヲバカニシテンノカイ...?!」とむきになっていたけれど、どうやらそれは心の底から言ってくれていたのだと、最近になって理解するようになった。


先日も、あなたは受け取るだけでいいと言ってもらって最初に思ったのは、それじゃああなたが空っぽになっちゃうじゃない、だった。でも、言葉を信じて受け取ることに専念すると、ものすごくしっくりきて自然で、これでいいんだ、これが真実なんだと思うのと同時に、これでいいのか?という不安も拭いきれない。女という性の、身勝手さ、凶暴さを受け入れられないのだと思う。男性に対しての与える喜びを、わたしは知らない。人間的な与える喜びなら知っている。でも、こと男性に対しては知らない。与えようとすると、なにかが擦り減るのを感じる。それよりも、与えられて、満たされたときに、明らかに心の底から幸せを感じているのがわかる。わたしは与えることはせず与えられるばかりの、なんて横暴な性なんだと、そこに根本的な嫌悪感があるのかもしれない。


よく女性の美しさは讃えられるけれど、わたしにとっては、わたしは男性の美しさには敵わないと感じる。純粋で、透明で、愛すべきバカで、笑っちゃうほどバカで、胸が苦しくなるほど、悲しくなるほど、やさしい。それに比べてわたしはどうだ。あなたが幸せなら、わたしも幸せ、とはならない。わたしの幸せが、最重要。あなたが幸せでも、わたしが幸せじゃなかったら、アウトなのだ。口先ではいくら誤魔化せたとしても、自分が幸せでない限り、心の底からの満足はないと本能が言ってくる。その横暴さを、自分で好きになれない。そうか、そうだったのか。好きになれなくたって、本音がそうなのだから、そんなことないと言い張るより、受け入れてしまったほうが楽なのだろう。


自分も、人も、喜ぶこと。試しに今日、自分の喜ぶことをちょっとやってみようかという気になってやろうとしたら、なんということでしょう、なにをしたらいいのか全然分からなかった。好きな曲でもかけて掃除をしようかなと思うも、自分の好きな曲すら知らない。なんてこった。今までずっとかけていた曲は、好きな曲じゃなくて、「かけた方がいい音楽」だったことに気づいた。あらいけない、そろそろ寝ないと明日の仕事に響いてしまう。


自分も、人も、喜ぶ仕事。そうなったときに全力のサポートを得られて、自分の力だけでは辿り着けない境地へ行けるのなら。自分が喜ぶ練習をはじめようと思う。やってみる中で、自分が喜ぶことへの嫌悪感も、変わっていくかもしれない。